卓話「金子二等兵の見た北方領土」

金 子  六 郎 会員
(1992年11月 9日)
3クラブ合同例会記念卓話

●気象

一、 冬 の 海  怒涛の中の輸送船
二、 吹   雪  ルチャル原の吹雪
三、 短かい春夏  百花咲き乱れる台上の歩哨

●産物

世界の三大漁場地
だまして取られた択捉島
一、 敗戦、ソ連兵上陸 スコーラダモイ東京
二、 シベリアの捕虜・収容所列島 ぬけないソ連への不信感

●金子二等兵の見た北方領土

気象  冬の海

怒涛の中の輸送船

昭和19年すでに敗色の色濃い2月初め。新潟県中心に、大きな動員令が下った。
新発田と仙台に集結し準備を整い、北海道に渡り両部隊は前後して、小樽市に集まり全市に民宿した。私は教育招集後2度目の召集で、陸軍二等兵としてこれに加わっていた。我々を北方の守りとして、千島列島に配属するためであった。既に日本海軍は制海権を失っており、海上輸送に米国の潜水艦の潜望鏡を逃れるため、大暴風の怒涛を待っていた。待つこと半月、大嵐が来た。仙台部隊は第一船団。我々新発田部隊は第二船団。小樽港を出港した。

波頭に乗った一万トン級の輸送船の船底の半分がみえ、スクリューが空転する。我々の船は枯れ葉のように波に玩弄された。
すぎること数日、仙台の第一船団は潜水艦の魚雷を受けて今沈没の報が暗い船倉にうずくまる我々の耳に入った。冬の北海の海は落ちれば一分は生きられないという。全く生きた心持ちはしない。右に逃げ左に逃げ何とか潜水艦の攻撃を逃れて、択捉島の浅瀬に逃げ上がった。

仙台に集結した三条の知人の多くが亡くなられた。神明町医師、外山直一先生のご長男も軍医将校として参加されたが、その時に北海の海に水没、戦死された。

吹雪  ルチャル原の吹雪

猛吹雪の続く毎日、択捉島の海岸に我々の部隊は天幕を張り、そこに生活し、沖の船からの荷物の陸揚げの作業が続いた。

小型陸揚げ船と、陸に渡した板から荷物もろとも海に落ちてもすぐに陸に這い上がれば、海水は服に浸み込む前に、氷の珠になってしまうそんな寒さであった。我々兵隊が生活する天幕舎は、休むことなく吹き荒れる吹雪で、全く雪の中に埋もれた。数日後に、金子二等兵にも不寝番の当番がまわってきた。雪の中に、埋もれた中隊の数個の天幕を巡回するのが任務だった。

自分の入っていた天幕を出て、銃を片手で頭の上に差し上げ、いま一方の手で、身長以上に積もった雪を、ラッセルして進む。追い風で、猛吹雪は後ろから吹きつける。何とか各天幕舎を巡回し、戻ろうとして後ろを振り返ると、今ラッセルしてきた跡は、吹雪で完全になくなっていた。前方から吹く向い風で、方向を見失い、勘をたよりに、雪をこぎ分けてすすむ。

帰る自分の天幕舎を見失い、寒さと吹きつける吹雪の中で、立ったまま途方に暮れた。その時「不寝番、不寝番」と呼ぶ声が右の方向に聞こえた。
その声に勇気づけられ、声のした方向に雪を分けて進む。さがす天幕舎はない。耳を疑い反転して左の方向に進み始めたら、また、不寝番と呼ぶ声が右の方向に聞こえた。よろこび勇気をふるって、その声の聞こえた方に進む。天の助け、めざす天幕舎があった。

命拾いをした。母が千葉県の成田の不動様に月まいりし、お百度をふんで頂いたお守り様が割れていた。
私は、いまでも毎年成田のお不動様におまいりを続けている。

択捉島の短かい春夏

台上の歩哨

択捉島の桜前線がくるのは7月中旬。吹雪の島にもおそい春と夏がいっしょに来る。この島も北海道北辺の利尻島・礼文島と同じ北緯45度くらいと思う、7月の礼文島は花の浮島。択捉島でも、高山植物が一斉に開き百花咲き乱れる。

太平洋を望む台上で歩哨の任務につく。

足もとは一面に花いっぱい。頭の上の空で鷲が輪を描いて舞い、目の前の海上を浮き沈みして逃げる鯨を追いかけて鮫の大群が海面に飛び上がる。長い長い海岸線の砂浜に無数のトドが眠そうにころがっている。長いコンブが幾筋もどこまでもどこまでも延びている。

嵐の海、吹雪の択捉も夢のような季節だ。

短い、短い、春夏の期間だ。

産物 世界の三漁場地

「にしんきたかと鴎にきけば私や発つ鳥波に聞け」、ソーラン節の一句だ。鰊の大群が来ると雄魚のだす白子で大海原の海面が広く一面に白く濁ると聞いている。

千島の海は世界の三大漁場地だと数えられている。千島の海は魚類、蟹、ウニ、コンブ、海藻、海産物の宝庫だ。季節になると、択捉島の川にも鮭が産卵のために上がって来る。重なりあって上がって来る鮭の間に棒を立てると、しばらくの間鮭の群れにはさまれてその棒は倒れない。私が、勤務した炊事場の側の沼にもそこから流れる川に、鮭の大群が上がって来る。冬になると、北海道に帰る孵化場の漁師達が沼に網を引く。引き揚げた大変な数の鮭が逃げないように頭の急所を棒で叩いてゆき、後に続く漁師が卵だけ入れ物に採って引き上げてゆく。累々たる鮭にすかさず跳んで来たどう猛な色丹鳥の群がたちまちきれいにたいらげてしまう。海岸では、我々のスキーストックでいくらでも大きな蟹がとれる。

部隊長の命令で、主食の米は、将来に備えて食いのばし貯蔵せよ。その代食は鮭または、蟹にせよ。一匹ものの鮭を竹竿にさして、火で焼いて食う。蟹飯は一度食うと鼻につく。いっぺんで食欲はなくなる。鮭や蟹は、金を払って切身を味わってこそうまい。
千島の魚や海産物は日本の宝だ。

ソ連に騙し取られた北方領土

スコーラダモイ東京

昭和20年8月15日終戦を迎えた。

8月の末、ソ連の兵隊が少数で恐る恐る上陸して来た。そして我々に、君達はスコーラ東 
京ダモイ。すぐ日本に返す。君達が帰る日本の本土は、長い戦争で全く疲弊のどん底で、着る物、食物は全くない。君達の兵器はソ連に引渡し、その他食糧や衣類は全て日本に持ち帰り、本土の親兄弟を助けてやって欲しい。急ぎ全員で、君達が山の奥深く隠し貯蔵しているものを君達が帰る船にすぐに積み込まれるよう山奥から持ち出して集積して欲しい。我々は一変に彼らに対する敵愾心はからりと晴れ、ソ連の温かい情に感激した。

択捉島に上陸以来、毎日夜を日に兵隊一人日当たり米俵一俵、他にカンパンの箱程度一個を責任量として、川を渡り、崖をよじ登り、死ぬ思いで苦痛に耐えて、山奥に集積した兵器、食糧、被服を、本土に帰れる嬉しさに、その重労働をものともせず、海岸に集めてその作業を完了した。

いよいよ我々に、本土帰国の乗船命令がきた。彼等は、また、我々に貴方の帰りを待っている故郷の父母兄弟姉妹に、貴方が持てるだけの被服、そして甘味品を持ち帰って喜ばせてやって下さいと。我々は生きて故郷に帰れる嬉しさ、喉から手の出る程ほしいキャラメル、練ミルクを持てるだけ持ち、欲も手伝い、身につけられるだけの被服を身につけて、船に乗れば明日にでも会える肉親に思いをはせて、歩きに歩いて、てんねい港(連合艦隊がハワイ攻撃に向かう時の全艦隊の終結港)に着いた。我々を乗せる大きな船が待っていた。沸き上る感激を胸いっぱいに大勢の兵隊が港の広場に並ぶ。

突然、ソ連当局より命令が来た。

ソ連としては、限られた船で一時でも早く、一人でも多くの兵隊を日本に帰したい。限られた船倉に兵隊一人で多くの荷物を持ち込めば三人乗れるところ一人か一人半しか入れない。ソ連は、君達を一刻も早く、一人でも多く日本に帰国させたいと思う、ソ連の意向を理解してほしい。それで兵隊一人当たり雑嚢(のう)に入る程度の日用品外に外套(夏物かまたは冬物)だけ持ち込んでよろしいと。

急な変更に不審に思ったが、一人でも多く帰したいという実状を理解し、折角汗を流して持って来た品物を後ろ髪をひかれる思いで、広場の一ヶ所に持参した品を山と積んで、用意された輸送船に何の不審も抱かずに乗船した。

明日にでも会える肉親の顔、なつかしい故郷の山川に思いを走らせて、皆が広い甲板を自由に歩きまわった。

一夜明けて、船は北海道の稚内港でなく、樺太の大泊港に着いた。連絡事項を受領に将校全員が下船した。約一時間くらいで、将校はまた、乗船して来た。不思議に下船前まで軍人の誇りとして許していた軍刀は、再度乗船して来た将校の腰にはなかった。

我々に命令が下った。通達事項があるので、急ぎ全員甲板より船倉に集合と。

我々全員は急ぎ船倉に下りた。とたん、甲板のハッチは堅く閉ざされ、ハッチの入口に機関銃がすいつけられた。万事休す。やられたと肝を冷やした。
それからいままで自由に使用を許された便所は、ソ連兵の監視の中で一人ずつ許可された。

昨日も、今日も船の進行方向にいつまでも陸地が見えた。だまされた。船は間宮海峡を北に、北にと進んでいた。
スコーラ東京ダモイ。すぐに日本に帰す。に、だまされて、無念にも我々は全くの無抵抗でシベリア送りになった。
ソ連は、我々をだまして、北方領土を手に入れた。

拭いきれないソ連への不信感

シベリアの捕虜、収容所列島

捕虜生活も明けての2年目の春、毎日零下20度くらいの日が続く。我々が上陸した北の端のソウガワニノ港から遠くに北樺太の雪を頂く白い山の峰が見える。
或る朝、港に通ずる鉄道に長い貨物列車が着いた。何百人のソ連人が破れた靴、寒さそうな衣類を身につけ、軍用犬がついて、肩から軽機関銃をさげたソ連兵に監視されて貨車から下りて来た。

密告によって捕らえられた同じソ連人。一党独裁の国。共産党を批判した者が、政治犯として、ソ連の国内にもおかれないで、この港から更に北の小さな島に送られると聞かされた。終生帰ることの出来ない人。大切な命が、その島で尽きる人達。

ソ連の小説家、ソリデニチエン氏の小説、収容所列島はこれを書いたものだ。

平気でウソをつき、人をだまし、密告で大衆を縛る。ソ連は恐ろしい国だ。
終生私の胸から、ソ連の不信は消えない。北方領土をだまして取ったソ連。
択捉島が日本に戻った時、少しはソ連への私のわだかまりは薄れるかもしれない。

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